Concept And Existence

先日、新聞のコラムに、ネット選挙に触れて「仮想空間で繰り広げられる運動がどうのこうの」的な文章があった。
具体的な文言をほとんど覚えていないので、まったく引用になっていないのが申し訳ないが、蒲田屋はネット空間のことを「仮想空間」と表現する人を見ると、そこで思考停止に陥る悪い癖があるので、勘弁していただきたい。


ネットを介したコミュニケーションのことを、よくわかっていない人が訳知り顔で「仮想空間」「バーチャル」などと表現する時代は確かにあった。
しかし、それも時を経て、ネットに対する理解が深まるにつれ、適切ではないと気付く人が増えてきたのではないかと思っていた。


なぜ適切でないのかは説明するまでもないが、ネットを経由しているだけで人間対人間のコミュニケーションであることに違いはないからだ。
むしろ、技術の進歩で非同期的(非リアルタイム)だったコミュニケーションが同期的(リアルタイム)になったことで、より生々しさは増している。
Skype や LINE でのコミュニケーションは実際に会話している感覚が得られるため直接感があるが、ネット掲示板やオンラインゲームでのやり取りは、間に別の概念が入るために、知らない人間には理解できない世界だっただろうことはわかる。


しかしそれは、新聞や雑誌と何が違うのか。


人間と人間の間に別の概念が入った非同期のコミュニケーション。
ネット掲示板SNS での意見交換がバーチャルだと言うなら、新聞の投書欄はバーチャルではないのか。読者参加型の交流コーナーは仮想現実だと言うのか。
現代の新聞記者は、これらの構造が同じであることに気付く想像力は持っていないのだろうか。


時代が変わり、新聞というメディアの力が落ちていることの象徴的な言葉ではなかろうか、と数か月ぶりに紙面で目撃した「ネット = 仮想空間」という表現で思った。


などと書くと、「いや、投書欄は実名だから」という反論があるのだろうが、そこは問題の本質ではない。
ネットの選挙運動も発信側は実名であろうし、新聞とて記名記事ばかりではない*1


「自分がわからないものは悪い」という発想は古今東西に見られるようなので、人間の本能的なものかもしれないが、それにしても最近は増えているような気がして仕方がない。
仮にその結論に至るにしても、もう少し「わかろうとする努力」をしてもいいのではないだろうか。


もしこれが努力した結果だとしたら、それはもう残念すぎるとしか。

*1:ということころに触れると、またややこしい話題が出てくるので、特に突っ込まない。記名記事だって記者の実在を確認する方法はほとんどないとか、匿名記事だって会社の看板背負ってるんだから滅多なことは書けないとか、まあ、いろんな意見があるはずだが、匿名性の話は本質ではないので丸ごとスルー。